2014年12月10日

鈴木義里(2011.6)『大学入試の「国語」』三元社

 オーツが読んだ本です。「あの問題はなんだったのか」という副題が付いています。
 本書では、昔から今までの大学入試の「国語」の試験問題を取り上げて、時代順に論評していきます。今の試験の形に落ち着くまで、いろいろな変遷があったことがわかります。
 それにしても、「国語」の試験問題というのは作ることがむずかしいものです。母語は、最初に習得した言語であり、母語話者としては母語が使えるのは当たり前なわけです。母語は常識の一部です。そのような母語について試験問題を作成し、解答者たちの何かの能力を見ようとしています。考えてみるだけでもむずかしいことです。
 作ることがむずかしければ、解くのもむずかしくなります。
 そもそも、普段、文章を書く側はわかりやすい文章を書くように(読者が理解してくれなければ無意味ですから)努力しているわけで、オーツが普段読むものでもわかりやすい文章が大半です。入試問題のようにわかりにくい文章にお目にかかることはありません。つまり、普通に文章を読んでいっても、「試験問題に適切な文章」に出会うことはありません。入試用の問題文探しだけでも大変な苦労がありそうです。
 最近の国語の入試問題は、適当な文章を探してきて、その中のある部分に線を引き、そこの説明や解釈を選択肢から選ばせるような問題になるわけですが、「正解」が正しいのか否か、どうやってわかるのでしょうか。
 穴埋め問題を出すと、元の文章を書いた本人からズタズタにされたという苦情が出るそうです。その気持ちもわからなくもないですが、となると、穴埋め問題はごく一部しか出題できないことになります。いや、そもそも、穴埋め問題にしたって、元の文章に組み込まれていたものが正しいとは限りません。いろいろなものが当てはまりそうな場合があるはずです。
 漢字問題は比較的簡単に出題できそうですし、正解も一つに決めやすそうですが、それ以外は、問題を作ること自体が難問です。この本を読んでいくと、過去の問題作成者たちの苦労がうかがわれます。
 こんなことを考えていくと、そもそも大学入試に「国語」が必要なのかという根本問題に直面します。特に、マークシート方式の試験問題は、受験生のどういう能力を測っているのか、疑問に思えてきます。問題作成者の意図を見抜く能力でしょうか。しかし、そんなものは「国語」の能力ではありません。
 いっそのこと、国語の配点を軽くしてしまい、問題は漢字に関するものだけに限定するというのはいかがでしょう。漢字能力だけを試験で問うとなれば、受験生は漢字に集中して漢字を覚えるでしょう。しかし、それでいいのかもしれません。漢字が十分に読めるようになっていることは、大学入学後にいろいろな分野の学生たちがさまざまな本を読んでいく上での基礎的能力ということになるでしょう。
 「国語」の配点を軽くするということは、国語以外の科目、私大文系でいえば、英語と社会を重視するということにつながります。それはそれでいいのではないでしょうか。
 まあ、オーツ個人としては、もっと多くの科目を出題し、解答させる方が、入試として意味があるように思います。しかし、私学の立場では、そんなことをしたら受験生が激減するからとうてい採用できないでしょうね。周りの私学が3科目で受験できるときに、5科目あるいは7科目を課すというのは自殺行為でしかありません。でも、高校時代にいろいろな科目の勉強をしておくことは、考え方の基礎を作っていく上でとても大事なことのように思います。


posted by オーツ at 05:00| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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